その日、娘には「今日は学童はお休みにしたから、給食を食べたら帰っておいで」といってあった。昼過ぎ、そろそろ帰宅するころかなと時計を気にしながら、仕事をしていたところ、外から子どもの声が聞こえる。女の子の甲高い声……。集団下校をしてきた娘が、マンションの前で友だちと「じゃあね、バイバーイ」などと言い合っているのだと思っていた。……そして、1分後。けたたましいチャイムの音とともに、娘の叫び声。
「ママ! 開けて! 早く!」
トイレでも行きたいのかと思いつつ、あわててドアの鍵を開ける。血相を変えて飛び込んできた娘の言葉は、まったく想像をしていないものだった。
「そこに変なおじさんがいた!」
どこに? どんなおじさん?何が変だったの? 矢継ぎ早に質問する私に、娘はしどろもどろで答える。
「すぐそこに変なおじさんがいて、こんにちはっていわれたから、こんにちはっていったの」
「マンションの人じゃない。見たことがない人。お客さんだと思った」
「いま、帰り?って聞かれて、そうですって答えたの」
「そうしたら、何かついているよって来て、スカートをめくってお尻を触ったの」
「辞めてください!って大きな声を出して、手をパチンとやって……」
「いいから、いいから。こっちにおいで。何かついているよっていうの」
「怖くなったから走って逃げて来た」
ここまで聞いた私は、娘に「家にいて! 鍵をかけて!」と叫び、すぐさま玄関を飛び出した。娘がいう場所には、誰もいない。マンションの敷地と、それぞれの階段、道路の果てまで見たけれど、誰もいない。すぐに家へ戻り、学校へ連絡した。
応対した副校長先生は「とにかくすぐ、警察へ電話してください。パトカーがたくさん来ます。娘さんはショックだろうから、警察にはお母さんからお話をしてください」という。指示に従い、すぐに110番通報。電話に出た警察官は、事細かに事情を聞き「娘さんと話せますか?」といった。
電話をしている最中、抱きしめていた娘は思った以上に落ち着いていた。「おまわりさんが話したいっていうんだけど、どうする?」と聞くと「いいよ。お話する」と答えた。
やや戸惑いながらも娘は、警察官の質問にしっかりと答えていた。犯人の人着(人相・着衣)、逃げた方向、自転車か自動車か歩きか、腕をつかまれたりはしなかったか……。
「そろそろ、警察官が到着するころです。電話を切ってお待ちください」
そういわれて、電話を切ったとたん、玄関のチャイムが鳴った。てっきり警察官だと思いながら、ドアを開けると娘の担任の先生が立っていた。肩をはずませ、息を切らせている。娘の担任はまだ20代の、若くて元気な男の先生だ。学校からあわてて走ってきてくれたらしく、先生の顔を見て娘もホッとしているのがよくわかる。
「大丈夫ですか!」
いま、警察へ通報したところです……と答えてすぐ、派出所から来たらしい警察官が玄関へ現れた。そして、間もなくパトカーが続々と到着。副校長先生も駆けつけてくれた。
「大きな声を出して逃げたんだって? えらかったね」
「怖かったね。落ち着いて逃げることができたんだね。えらかったよ」
担任の先生も副校長先生も、とにかく娘をほめちぎった。大げさなほどにほめてほめて、親としては少し照れくさいほど。でも、こうした先生方の対応が、のちに娘の心に大きく影響を与える。
生活安全課の刑事さんたちが、何台もの覆面パトカーで駆けつけた。車内で保護者立ち会いのもと、事情聴取を行なう。別々の刑事さんが、入れ替わり立ち代わりパトカーに乗り込んできて、何度も同じことを聞く。
「その人の特徴は?」「どっちに逃げた?」「他に何かされた?」「どこにいたの?」「どんな服を着ていた?」「身長は?」「年齢はどのぐらい?」「メガネはかけていた?」「どっちに逃げたかわかんないかなあ?」
私自身、痴漢を現行犯逮捕をし、事情聴取を受けたことがあるので、こういうもんだとはわかっているが、あまりに同じことばかりを聞くので、イライラがつのる。
「それはさっきから何度も答えています」
「だから! 娘が逃げてきたんだから、その後のことはわかりませんって答えているでしょう?」
「通報時に電話でも伝えています」
娘の訴えが間違いでないか、虚言ではないか、記憶違いではないのかを確認する必要があるのはわかるが、嫌な記憶を掘り返されるのは、気持ちのいいものではない。性犯罪にあった成人女性が警察へ行くのをためらう、ということを耳にするが、それも当たり前だと感じる。我慢の限界(娘ではなく、私の)が近づきつつあるころ、刑事さんのひとりが私だけを車外に連れ出し、小声でこう耳打ちした。
「お尻を触られたといっていますが、おかあさん。いちおう、念のため、ご自宅に1度戻り、娘さんの体をチェックしてください」
予想外のことに愕然とする。そうか、確かにそうだ。娘ぐらいの年齢では、まだ何をされたのかもわからずにいることも多い。まさか……!
あわてて娘を連れ帰り、女性の刑事さんとともにスカートや下着、体のチェックをする。娘は「お尻をペロッと触られただけだよ〜」と笑っている。たまたま、スボンとスカートが一体化した、いわゆる「パンツインスカート」というものを履いていたため、下着を触られたり、直接体を触られたわけではなかった。それでも、刑事さんに耳打ちされるまで、そんなことを考えもしていなかった自分にあきれかえる。
どうやら、犯人は集団下校の列の後ろから自転車でついていき、娘がみんなと別れてマンション敷地内に入るのを確認し、追いかけてきたらしい。そして、自転車を止め、さも来訪者のような顔をして声をかけてきたのだ。
入学直前、我が家では何度も子どもを狙った犯罪について、親子で話し合っていた。知らない人に声をかけられても、付いて行かないこと。話しかけられても、できるだけ離れていること。嫌なことをされたらすぐに大きな声を出すこと。変だと思ったらすぐに逃げること。たとえ、顔見知りでもパパのクルマ以外は乗っては行けないこと……。
こうした話をしていたこともあり、娘は逃げることができた。そして、先生方が真っ先にほめてくれたことで、事件当初は「怖かった」だけの気持ちが、すぐに「自分は大きな声を出せたのがえらかったんだ」と気持ちを切り替えられたことも幸いした。あれから数日……。娘は元気に学校へ行き、私と夫は交代でマンション前に立って登下校の見守りをしている。今度もし、犯人を見つけたらタダではすまさない。私たちの娘に怖い思いをさせたことを、一生後悔するほどの恐怖を味あわせてやろう。
追記・ほんの少し尻を触られた程度で、何を大騒ぎしているのかと思う方もいるかもしれない。確かに被害届を出すまでもない事件であろう。しかし、こうした犯罪はいずれエスカレートし、再犯を重ねるケースも見逃せない(日本では犯罪者の追跡調査をしておらず、正確な再犯率のデータは公表されていない)。
数年前ならいざしらず、現在は満員電車で「尻を触っただけ」でも、迷惑防止条例での検挙、もしくは強制わいせつの現行犯で逮捕される時代だ。特に子どもを狙った犯罪は年々、増えており、保護者の意識(この程度で大騒ぎをするなんてという、犯罪の見逃し)改革も必要と思われる。事実、事情聴取のときに話をした刑事さんは「このぐらいで通報するなんてと戸惑う人が多い。しかし、通報をする、パトカーが駆けつけるという行為だけでも、犯罪者にとっては嫌なもの。犯罪抑止のためにも、ささいなことでも通報してほしい」と話している。
参考リンク
子ども対象・暴力的性犯罪への再犯防止策について
子どもの安全 :警視庁
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